セッション4.「次世代放射光源を利用した生命科学研究の展望」 |
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ディスカッションリーダー:中迫 雅由(慶応大) |
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近年、SPring-8に代表される第三世代放射光実験施設から供給されるX線利用によって、生命科学、特に生命活動を支える分子素子の一群である"蛋白質"の結晶構造解析分野が大きく進展した。結晶構造解析で得られる蛋白質の複雑精緻な姿から、生命科学者はそれらの動作機構を予測し、また、病変に関わる蛋白質に対する創薬開発の展開を行いつつある。しかし、生命科学者の望む究極の測定は、細胞の中で、水をも含めた分子集団がどのように協奏して生命現象が営まれているのかを知ることにあるのではなかろうか。そういった意味で、近い将来の生命科学研究では、複雑な非晶物質である細胞或いはその構成要素群の、より高解像度かつ高時間分解能測定が必要とされると予想される。
現在、次世代放射光源としてX線自由電子レーザーが現実のものとなりつつあり、また、リング型光源としてはエネルギー回収型線形加速器の検討が開始されている。これら光源の特徴は、第三世代放射光の性質を超えた、高輝度、高コヒーレンスと短パルス性にあり、非晶物質の原子レベルでの構造解析や高い時間分解能での測定など、物質科学・生命科学における様々な利用が検討されている。この様な状況を踏まえ、本セッションでは、第三世代光源を用い、生命科学分野での挑戦的かつ先鋭的な測定を行っておられる岩本裕之氏(高輝度光科学センター)と足立伸一氏(KEK-PF)に研究の現状を講演いただき、次世代放射光源を生命科学研究にどのように活用するのかを議論したいと考えている。
講演に先立ち、生命科学の現状と次世代光源で期待される測定について簡単な紹介を行い、講演への序論としたい。
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講演1: 生体を形づくる大規模分子集合体のX線構造解析 |
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岩本 裕之(JASRI) |
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細胞内の蛋白分子はしばしば大規模な分子集合体を形成し、その中で集団として機能している。集合体の中では多数の蛋白分子種が複雑な相互作用を行なっており、その機能は1つの分子種を単離して性質や構造を調べても十分に理解することはできない。このような大規模分子集合体の機能を調べるためには分子の集団としての振舞いを調べる必要があり、これに対して有効な手段の1つがX線回折法である。中でも細胞運動に関係した筋肉の収縮装置と繊毛・鞭毛の軸糸は構造のインテグリティが高く、機能もダイナミックで興味深い研究対象である。何れも運動力を発生するモーター蛋白と、レールの役割をして力や運動を外部に伝える蛋白がそれぞれ規則正しく配列し、X線回折実験の好適なターゲットとなっている。
筋肉のモーター蛋白はミオシンで、レールはアクチンである。それぞれが通常1種類のアイソフォーム(分子種)からなる比較的単純な構成で、ミオシン・アクチンともらせん状に配列した繊維となっているためX線回折像の情報量も多く、解析が比較的容易である。機能的には1次元方向に変形するリニアモーターである。筋肉は生体内の存在量が多いため、実験室のX線発生器の時代から広く回折実験の試料として用いられてきた。しかし精密な静的測定や筋収縮と同じ時間スケール(ミリ秒の時間分解能)で測定ができるようになったのはシンクロトロン放射光が利用可能になった以後のことである。さらに数マイクロメーターの径に絞った放射光(マイクロビーム)を用いることで、特に昆虫の羽ばたきに用いられる飛翔筋について、その機能に特化した高い構造的インテグリティがあることが明らかになった。
一方、鞭毛・繊毛の軸糸ではモーター蛋白がダイニン、レールは微小管(チューブリン)である。軸糸の径はわずか200ナノメートル程度であるが、この中に1種の外腕、6種の内腕からなる7種のダイニンのアイソフォームが存在する。さらに個々のダイニン分子もミオシンより分子量も大きく、複数のヌクレオチド結合部位が存在するなど複雑である。基本的な動作原理はリニアモーターであるが、まだ十分に理解されていない時空間的な運動制御により軸糸全体としては3次元運動するアクチュエーターになる。サイズが小さいうえ、ダイニン分子は直線的に配列しているので全てのダイニン分子種に由来する反射が子午線上に重なってしまい、X線解析は困難である。軸糸のX線回折実験は緒に就いたばかりであるが、軸糸の研究は筋肉に比べて大幅に遅れており、X線回折実験に寄せられる期待は大きい。
ここでは上記のようにますます要求が高度になっていく生体超分子集合体の構造解析に対し、次世代光源がどのように役に立つかを議論したい。
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講演2: 短パルス高輝度光による生体分子の動的構造 |
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足立 伸一(KEK−PF) |
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生体内のタンパク質分子の働き(機能)は,必ずタンパク質の分子構造の何らかの動き(構造変化,ダイナミクス)を伴っている。それは,自分の体の中で日常的に行われている生理作用(たとえば,呼吸や消化や筋肉の収縮・弛緩といったこと)を思い浮かべれば,なんとなく合点がゆく。タンパク質の本質がそのダイナミクスにあるとすると,構造生物学におけるゴールは,タンパク質構造のダイナミクスを明らかにし,そこからその機能を総合的に理解することであるといえる。現在,多くの大規模タンパク質構造解析プロジェクトにより蓄積されつつある構造情報のほとんどはタンパク質の安定な平衡状態の構造に関するものであるが,これらの構造情報にさらにタンパク質の構造ダイナミクスに関する情報が加わることにより,我々のタンパク質構造に対する知見はより重層的なものとなり,たとえば新規医薬品の開発に対してより多角的な方針を与えることができると期待される。
放射光の高輝度性,波長可変(白色)性,パルス性を活用することにより, X線回折実験からタンパク質の構造ダイナミクス情報を得るための多くの試みがなされてきた。特に結晶中における非平衡状態の構造解析を行うことを目的として,光や温度,圧力などの外的刺激を使って結晶全体または一部において非平衡状態を生成させた状態でのX線回折実験が、活発に行われている。 結晶中に非平衡状態を生成させる方法としては,低温条件下で非平衡状態を安定にトラップする方法(低温トラップ法),結晶中で反応させながら複数のデータセットを測定し,いくつかの反応進行状態を時系列に沿って構造解析を行う方法(分から時間オーダーの時間分解測定法),パルスX線とパルスレーザーを組み合わせたポンプ・プローブ法により,過渡的に生成した非平衡状態を短パルス高輝度光を使って測定する方法(時間分解ポンプ・プローブ法)などがこれまでに報告されている主なものである。本講演では比較的ゆっくりと変化する(または停止した)反応中間体を観測するための低温トラップ実験からピコ秒オーダーの高速なX線回折実験まで,さまざまな時間域と方法でタンパク質の非平衡状態の結晶構造解析を行った研究例について紹介する。
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セッション5.「分光で極める」 |
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ディスカッションリーダー:松尾 由賀利(理研) |
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分光学は物質の光に対する応答(吸収または放出)を周波数の軸に対して展開することにより物質の特性を引き出す学問であり、その歴史は古い。特に孤立原子分子系においては、原子や分子の光に対する共鳴線が本来持つ周波数軸上の幅が非常に狭く、線幅の狭い光源を用いれば精度の高い測定を行うことができる。このため単色性に優れたレーザーはその発明以来、分光学の精度を飛躍的に向上させることとなった。レーザー分光技術を用いれば、8-9桁の精度の測定を行うことはそれほど難しいことではなくなっている。レーザーが分光測定の精度を向上させ、ここから得られた知見がレーザーの性能を向上させ、さらに分光精度が向上する、というサイクルは今に続いている。最近では、水素原子の遷移周波数を14桁以上の絶対精度で測定することが可能になっており、水素と反水素の精密周波数測定や、永久双極子モーメントの探索を行うことでCPT対称性の破れを検証できる可能性が現実味を帯びてきた。微細構造定数など基礎物理定数の経時変化を測定することも手の届く範囲になってきている。また、原子の超微細構造の精密測定により、原子核の基本的な物理量である核スピンや原子核の電磁モーメント、原子核の形状、電子密度などを求めることができる。究極の分光技術は素粒子・原子核を始めとする物質の基本や宇宙の根元に迫る有力なツールであると言える。
精密原子分子分光が貢献できる学問分野は非常に多岐にわたり、このセッションで俯瞰し尽くすことは不可能であると言うべきであろうが、本セッションでは、赤外・遠赤外領域および可視領域のレーザー分光技術を駆使して、物質の根幹に迫る研究をされている研究者の方をお招きしてお話をうかがいたい。松島房和氏には、赤外・遠赤外レーザーを用いた精密分光についてご講演いただく予定である。この周波数領域では、分子の回転、振動遷移が対象となるが、これらを精密に測定することは宇宙の構成分子の生成メカニズムを解明することにつながるであろう。榎本勝成氏にはレーザー冷却された原子の光会合分光についてご講演いただく予定である。光会合分光技術は電子遷移においても非常に分解能の高い測定を行うことが可能で、例えば励起状態の寿命のような動的な物理量をも分光学的に精密に求めることのできる、高いポテンシャルを持つ手法である。
既に確立したスタンダードな分野に見えるレーザー分光学だが、技術の発展、装置の性能の改良により、さらに新しい現象に切り込んでいくことが期待される。ディスカションリーダーらが取り組んでいる原子核構造研究へのレーザー分光の応用も併せて紹介し、今後も分光で極めることにより観測が可能になってくる現象、そのための必要な技術についてディスカションと展望を行いたい。
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講演1: 炭酸ガスレーザーを利用した赤外・遠赤外分光 |
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松島 房和(富山大) |
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光源の小型化、固体素子化が進むなかで、大きな気体ガスレーザーは分光学の研究室からも次第に見掛けなくなってきた。しかし、そのような時代背景のなかでも、炭酸ガスレーザーはいまだに、波長9-11ミクロンの中赤外域において大きな出力と高い周波数安定度を持つ良質な光源として活用されている。この講演では、我々が行ってきた赤外域・遠赤外域の分光や分子内のダイナミックスの研究のうち、炭酸ガスレーザーの技術を縦糸にして関連した分光研究を取り上げてみる。具体的には、炭酸ガスレーザーの光をもとに波長変換の技術を適用して周波数可変な遠赤外光や中赤外光をつくり、高精度高分解能の分光へ応用する例、また、炭酸ガスレーザー光の強度を利用して同種の分子の中に存在する異なった核スピン異性体を区別・分離し異性体間の変換過程を調べる例について話す。
炭酸ガスレーザーの発振線の周波数は悪くても2kHz程度の誤差で知られていて、レーザー線を発振の中心周波数にロックすることで、それ自身がいわば副次的な周波数標準の役割をしている。遠赤外域は分子分光のスペクトルの宝庫であるが、この領域の良質な光源を得るために近年研究が盛んになっている。2本の炭酸ガスレーザーの差周波をとると、強度は弱いものの周波数精度が9桁ほどの良質の遠赤外光が得られる。この光源を用いて、簡単な構造ながらこれまで精度の高い分光データの乏しかった基本的な分子・イオンについて、主として回転スペクトルの周波数測定を進めた[*1]。 精度の高い理論計算との比較検討が期待される分野である。
炭酸ガスレーザーの発振線をマイクロ波周波数で変調すると、数ミリワットの出力を持つ周波数可変な赤外光が得られる。従来、使いにくい鉛塩半導体レーザーで調べられていた周波数領域で、理想的なコヒーレント光源による飽和分光が可能になり、ラムディップ観測による高分解能分光や、2重共鳴法による高感度な分光が可能になった[*2]。
炭酸ガスレーザーの強度を利用して、同位体分離の手法で特定の核スピン異性体を分離する方法がある。これまで、核スピン異性体間の変換速度については実験的な研究が乏しく、極端に遅いものとして無視することが多かった。しかし、分子衝突に起因する異性体変換だけをとっても、この速度は必ずしも遅いものばかりではないことがわかってきた。特に、星間分子の観測において、異なる核スピン異性体の存在比は宇宙の物質進化の歴史を解明する大切な手がかりでもあり、異性体間の変換速度が無視できない量となれば、宇宙の物質進化の理論にもおおきな影響をあたえるであろう。講演では、われわれの最近の研究から、レーザーを用いた核スピン異性体の分離と変換速度の測定について紹介する[*3]。
*1 松島,小田島,常川,高木, 日本物理学会誌 vol.57, No.3, 180-187 (2002) *2 孫,森脇,常川,松島,高木, 分光研究 55, 3-9 (2006) *3 Z-D. Sun, K. Takagi, F. Matsushima, Science 310, 1938-1941 (2005)
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講演2: 冷却原子を用いた光会合分光 |
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榎本 勝成(京大) |
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レーザー冷却に基づく原子の減速・捕捉は、マイクロケルビン以下の極低温の原子気体を実現可能にし、1995年には希薄原子気体のボーズ・アインシュタイン凝縮が実現された。このような極低温の原子気体は分光研究の面でも大いに利用され、原子時計や光会合(フォトアソシエーション)分光などに応用されている。
光会合は衝突原子対の間に連続状態−束縛状態間の遷移を起こして2原子分子を生成する方法であり、レーザー冷却された原子を用いることで、その分子状態を高分解能で分光することができる。例えば1 μKの原子気体は解離状態でありながら、20 kHz程度の線幅しかない状態とみなすことができる。この光会合分光は通常の分子分光とは異なり、解離極限付近の分光に威力を発揮する。解離極限付近、つまり長核間距離の極限では、相互作用は原子間に働く最低次の相互作用(例えばS状態の原子同士ならファンデルワールス力による距離の-6乗の項が最低次)と、各原子が持つ微細構造結合、超微細構造結合だけで記述できるようになり、理論的取り扱いが容易である。これにより、例えばs波散乱長や励起状態の寿命などを高い精度で求めることができる。
我々のグループでは冷却Yb原子の光会合研究を行っており、最近では異重項間遷移(1S0-3P1)を用いたサブMHzの高分解能分光研究を行っている。この異重項間遷移は解離極限からわずか数MHzにある振動準位まで分離することを可能にし、これまでに行われてきた双極子許容遷移の光会合実験よりもさらに解離極限に近い領域での物理を調べることができる。そのような領域では超微細構造結合さえも原子間相互作用に比べ十分大きいものとなり、新奇な分子状態が現れる。本講演ではYb原子の4種類の同位体を用いた光会合分光研究を紹介し、同位体間で見られた定性的な違いなどについて議論する。
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